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新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2017年12月に日経BP社より『江副浩正』(馬場マコト、土屋洋著)が出版されました。500ページにもわたる大作ですが、一気に読み終えることができました。表紙には「自ら機会を創りだし 機会によって自らを変えよ」の文字の刻まれたプレートがありました。
リクルート関係者が書いた本ですから、外部の方々が読まれてどの様にお感じになるかは定かではありませんが、私にとっては「自分の生まれ育った場所がどのようにでき、変化していったのか」を改めて教えてくれる一冊でした。
とは言いましても、決して「江副礼賛本」ではありません。江副さんの光と影の部分が極めてストレートに書かれています。一般社員では全く知りえなかった内容が多々出てきますが、私は江副さんの“狂気”に触れたような気になりました。
同時に、「自ら機会を創りだし 機会によって自らを変えよ」という社風・文化で育ったことに強く誇りを覚えたのも事実です。

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■いざ、アメリカへ

さて、前号の続きです。
私自身は、入社1年目の終わりに社内公募された「アメリカ駐在員」に応募し、2年目の4月から幸いにもロサンゼルス駐在をすることになりました。
当時からリクルートでは「社内公募」「自己申告制度」が当たり前のように行われていました。応募の意思があれば、人事部に直接応募をすればよいのです。直属の上司に言わなくてよいというのがこの制度を機能させるキモです。(部下が自分の部署を出たいと聞いて、いい顔する上司は少ないのが現実ですから)
さらには、入社年次や所属部署などに関係なく、公平に審査・面接を行われていたように思います。そうでなければ、入社2年目の一営業マンを、立ち上げたばかりのロサンゼルス・オフィスに送ろうなどと思わないでしょうから。

公募から1週間くらいで、書類選考・支社面接・役員面接が行われ、あれよあれよという間にアメリカ行きが決まりました。新人だった私は、上司や営業所の先輩・仲間に対して何となく後ろめたい気持ちがありましたが、「機会は自分で創るもの」と思ってチャレンジしたことを、今でもよく覚えています。
アメリカ行きが決まった日には、「よし、これを契機に自分自身を大きく変えてやる!!」と意気込んでもいました。

アメリカでの仕事は、アメリカの大学に留学している日本人学生向けの就職情報誌の発行でした。今でこそ、このような情報はすべてインターネット上でとなりますが、当時はまず情報を学生の手元に届けることから始めなければいけません。さっそく全米の大学・学部に、何人の日本人が留学しているのかを調査することから始め、最終的には全ての学生の住所を把握し、求人情報誌をダイレクトメールで送れるようになりました。
しかし、この間の仕事は、まったく前例のない仕事でした。他社に事例があるわけでもありませんし、ましてや「これが正解・確実」など言う保証もどこにもありません。とにかくチャレンジしてみる、上手くいかなければ方法を変える、いわゆる「走りながら考える」ことの繰り返しでした。
なにしろ、あの広いアメリカを数人で担当することはできません。日本からの応援部隊を組織し、主要都市の大学生をボランティア・アルバイトとして集めたりもして、全米300大学近くをカバーし、約2万人の学生名簿の収集を実現させていきました。

■できるかできないかじゃない、やるかやらないかだ。
 できるまでやる、途中でやめるからできないんだ。

私自身としては、入社2年目から4年目くらいにかけて、ビジネスマンとしての自信や自覚が芽生える時期であったと同時に、仕事で成果を出すための基本が身に付きつつあった時期でもありました。
実際、仕事を通じて、多くのアメリカ人ビジネスマンと知り合いになりました。
彼らの多くが、自分のやりたい仕事や身につけたいスキルなどについて、明確な目標を持っていました。仕事が終わってから夜間のスクールに通って、マー
ケティングやアカウンティングなどの講座を受講している人も少なくありません。
私に対しても、「ミスター・カミムラ、お前の専門スキルは何か?」とか、「日本の会社がアメリカでヒューマン・リソースビジネスで成功するのか?」など、およそ日本にいた時には受けた事の無いような質問を、次々にしてきました。
すべからく、私は自ずとキャリア・スキル・事業といったことを考えるようになっていったのです。

同時に、アメリカにおける人事制度や、キャリアアップを支援する仕組みの根本に「自立・自律」が流れていることにも、気づきはじめました。
アメリカでは、自ら目標を立て、その実現に向けて必要な知識やスキルを身につけるために社内外で学ぶ機会を自ら見つけて、そこに参加していくことが、日常当たり前のように行われていたのです。
まさに「自ら機会を創りだし 機会によって自らを変えよ」というリクルート的社是が、アメリカのビジネス社会においては普通の文化・風土になっていたように思います。

■アメリカからの帰国後、私が見たリクルートという会社

アメリカ生活にも慣れて、仕事も順調に進んでいたように見えてきた矢先、とんでもない事件が起きました。ちょうど日本国内では、リクルート事件が世間を騒がせていた頃です。
「リクルート アメリカでも事件!!」と、新聞で大々的に報道されたのです。

80年代後半、アメリカでは「在米日本企業の雇用差別」を徹底的に糾弾していました。
大きな標的は自動車・家電業界でしたが、「人材ビジネス・雇用ビジネス」を手掛けていたリクルートも、日本の事件と相まって狙い撃ちされた形となりました。留学生採用ビジネスが「雇用における人種差別である」と判断されたのです。

事業は縮小を余儀なくされ、28歳でロサンゼルス・オフィスのマネジャーをしている時には「レイオフ」も経験しました。(もちろん、する側です)ホワイトカラーの一斉解雇が珍しくないアメリカでのこととはいえ、さすがに悩みましたし、苦しみました。
リストラ後は新たな事業にチャレンジすることもできない日々が続き、日本に帰国することになりました。

こうやって6年半の駐在を終え、30歳で日本に帰国した時、世間はバブル崩壊で残業規制、ボーナスカット、リストラと言った言葉が躍っていました。
もちろんリクルートもその経済の荒波には抗えませんでしたが、それでも「自ら機会を創りだし 機会によって自らを変えよ」の精神は失われていなかったように思います。
社員一人一人の自主性と自律性で何度も危機を乗り越え、ピンチをチャンスにして、着実に成長を続けています。

創業から50年以上も経っているのに、いまだにベンチャー・スピリッツを持ち続けている会社の秘訣が、ここにあるのだと思います。
私自身は、その後リクルートを退職し、「自ら機会を創りだし」過ぎたのか、しばらくの間、転職を繰り返すことになってしまいました(苦笑)。

次回からは、流浪の民のような状態から、弱小組織の変革リーダーへ、中小企業を業界トップ3へ、上場へ、そして大分トリニータへ……。
私が追求してきた「個人・組織の成長の秘訣」について、記していきたいと思います。

 

profile

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神村 昌志 氏
(かみむら・まさし)
株式会社大分フットボールクラブ経営改革本部長。
1962年、愛知県半田市生まれ。大阪大学文学部卒業後、1985年に株式会社リクルート入社。2年目よりリクルートUSAへ出向。ロサンゼルスに駐在。外資系企業を経てJAC Japan(現・JAC Recruitment)入社。2003年に代表取締役に就任し、2006年JASDAQ上場を果たす。2008年10月より株式会社アイ・アム代表取締役社長を経て、2012年3月より株式会社アイ・アム&インターワークス代表取締役会長。2015年にはJリーグが設立したプロスポーツの経営人材を養成するビジネス講座「Jリーグヒューマンキャピタル(現・一般財団法人スポーツヒューマンキャピタル・略称「SHC」)」一期生へ。2016年より現職。趣味はサッカー、ゴルフ、落語、講談、ワイン、読書。アマチュア講談師として年に数回高座にも上がっている。
■大分トリニータ(株式会社大分フットボールクラブ)
http://www.oita-trinita.co.jp
■一般財団法人スポーツヒューマンキャピタル
http://shc-japan.or.jp