ほんの数年前までは「真の観光立国を目指す!」「2030年訪日外国人旅行者数6000万・消費額15兆円!」と、官民共通で威勢の良い目標が叫ばれていました。しかしコロナ禍に襲われ、円安&物価高、国際情勢の変化を経て、メディアも国民もオーバーツーリズムに頭を悩ますようになってきました。大きく目論んでいたインバウンド需要が低迷し、新しい消費行動への対応に振りまわされた末、ようやく次のステージが見え始めたところです。

ところでみなさんは『Time Out』というメディアをご存知でしょうか。
元々は1968年にロンドンで創刊されたローカルシティガイドですが、現在では世界333都市、59か国、14言語で展開するグローバルメディアに成長しています。
日本では2009年に『タイムアウト 東京マガジン』という名称でインバウンド向け英語・中国語版の季刊誌として創刊しました。2025年10月には隔月刊3万部のタブロイド版として無料配布を継続しています。

当メディアの歴史的背景や編集方針等についての詳細は省きますが、この雑誌の存在が広く知られるようになったきっかけのひとつが、同誌の名物企画「2024年世界で最もクールな街」ランキングに「学芸大学」駅周辺(東京都目黒区)を世界15位にランキングされたことが、多くの国内メディアに取り上げられたことでした。

■「世界で最もクール」に選ばれた日本唯一の街
〜”未開発地帯” 学芸大学が魅力的な納得理由〜
(東洋経済オンライン・2024/10/10)
https://toyokeizai.net/articles/-/832707

選考理由はともあれ、そんな極めて独特な視点を持つ編集スタッフが、2025年では、なんと同じく「クールな街」1位に「神保町」を選んだのです!!
これには大きな驚きと同じくらい「なぜ?」という疑問が湧いたのも事実。「そもそもクールな街って?」という声は筆者界隈でも大きな話題になりました。
そこであらためて、クールな視点で、神保町界隈を歩いてみると…。

神保町と言えば「古本屋街」「昔ながらの喫茶店」と相場が決まっていましたが、11月3日の連休最終日 『神田古本まつり』に出掛けてみると、そこにはちょっとした変化が見て取れました。
絶版本・希少本等の往年の文学書ではなく、日本のデザイン書やファッション雑誌等を主に取り扱う店に、想像を越える多くのインバウンド客の姿がありました。さらにはコミック全巻を取りそろえる催事出店の店頭にも彼らが群がっていました。
主観ではありますが、知的好奇心に溢れた、日本文化に興味津々な老若男女のインバウンドグループという印象です。

さぼうる』『ミロンガ・ヌオーバ』『襤褸』といった新旧喫茶店の長い行列にも彼らが大人しく並んでいる姿は、渋谷のスクランブル交差点のど真ん中で動画を撮りまくり、浅草のレンタル着物でメロンパンや抹茶ソフトクリームを食べ歩くといった様相とは、まったく違う景色を作っています。

筆者は何年も前から神保町に足を運んでいますが、少なくとも外見上は“世界で最もクール”に感じることは正直ありませんでした。
美味しいナポリタンもカレーも餃子のお店もほぼ変わりません。ちょっと胡散臭い書店も健在です。
しかし渋谷や下北沢のように開発が進んで以前の面影が消え失せた街とは違い、まるで空を浮遊する雲のように、以前とは違う景色を見せてくれる何かが神保町には存在します。
そこには作者不詳の“物語”を、地元民と観光客が“一読者”として共有できる空気があるからだと思います。

ここで筆者が神保町を愛してやまない、個人的物語を持ったお店を紹介します。
まずは『ビヤホール ランチョン」。
創業明治42年の超老舗の洋食&ビヤホール。
この店の個人的物語は、筆者が敬愛する作家・吉田健一氏が常連客であったことです。昭和40年代に神田駿河台にあった中央大学で教鞭を取っていた彼が、講義の合間や編集者との打合せに足繁く通っていた等の逸話の数々が思い浮かびます。
彼が「日本一注ぎ方がウマい」と称したビールや、「一緒に大好物のビーフシチューを食べたい」というワガママからお店が考案したビーフパイと、店の普遍的な魅力を支える物語が詰まった店です。


もう一軒は、日本初のベルギービール専門店『ブラッセルズ』。
いまでは日本国内いたるところでベルギービールが飲めるようになりましたが、日本の1号店でもある神保町店は、まさに「ベルギービール愛好家の聖地」です。
筆者にとって忘れることが出来ない物語が、この店にはあります。
パルコ勤務時代にお世話になった音楽プロモーター『カンバセーションアンドカムパニー』創業者の芳賀詔八郎氏(故人)が、ベルギー出張で出会った修道院りトラピストビールに魅了されれ、帰国後すぐに事務所の1階をビール店に改装オープンしたことです。
その噂は業界関係者から瞬く間に広がり、数年後には都内に数店舗展開するまでに急成長。そこから都内でベルギービールを扱うお店が一気に増えたのです。
経営体制が変わった現在も、創業者の遺志はしっかり受け継がれ、予約困難な人気店となっています。

結論。
“クールな街”とは、“唯一無二の物語”を持ったグローカルな街。
つまり神保町のような街を指すんですね。

【追記】
最近『Time Out』誌は2025年版「世界で最もクールなストリート」を発表。12位に西原商店街(東京都渋谷区)を選出しました!
ちなみに日本最高位は2位のオレンジストリート(大阪府)でした。

profile

柴田廣次
しばた・ひろつぐ/1960年、福島県郡山市生まれ。筑波大学を卒業後、1983年株式会社パルコ入社。2004年〜2007年には大分パルコ店長を経験。2018年2月に独立し「Long Distance Love 合同会社」を設立。
■Long Distance Love合同会社
https://longdistancelove.jp
■コラムインコラム
横尾流哲学的日記? 日記風哲学書?

500ページ超と、まるで辞書のように分厚い本の帯に書かれた推薦文「究極の脱力がもたらす力と叡智がここにある」(柄谷行人/思想家)を見た時、そしてパラパラとめくった時の細かい文字の二段組レイアウトを見た時、これは読み切れないなと、思わずひるんで買うのをためらいました。
しかし彼の本業、画家の作品よりも文筆家としてのエッセイ等が好みなので思い切って買いました。そう、今回の推薦図書は現代美術家・横尾忠則氏の最新刊『昨日、今日、明後日、明々後日、弥の明後日』です。ざっくり説明すると、2019年12月2日~2024年12月15日まで毎日書き続けられた横尾氏の日記を収めたもの。おそらく本人自身も決して「力と叡智」を込めたとは自覚していない、まさに「脱力」した日記以外の何ものでもない本です。
書かれている内容は大きく分けると「夢」「猫」「病気」「コロナ禍」「人との関わり」について。日記なので当然ですが、徒然なるままに書かれたもの。しかしこれが凄まじく面白い。時に落語を聞いているように軽妙洒脱で、時に哲学書を読んでいるような高邁深遠さも感じ、柄谷氏の深読み推薦文も納得できる「哲学的日記」です。特にカタカナで書かれた「夢」の話は、とにかく奇想天外でありながらリアリティもあり、思わず声に出して笑ってしまうほど。そのひとつを紹介すると「2020.2.23<巨人二入団スルコトニナッテ、キャンプニ入ル。50年以上、キャッチボールサエシテイナイ。イキナリ、プロヤキュウノ選手ニナッテシマイ、心配事多シ…」等、まさに大谷翔平級の筋書きのないドラマに満ち溢れています。
御年89歳・横尾氏の一挙手一投足に目が離せなくなる、そんな1冊です。