※メイン画像は麻生太吉の別荘「山水園」の絵葉書。写っているのは「世界周遊船」で別府を訪れた外国人客たち

およそ百年前、別府では本当にたくさんの絵葉書が作られました。地獄や砂湯など、珍しい風景の絵葉書は入湯客のおみやげに喜ばれ、よく売れたようです。
私はそんな絵葉書の収集に夢中になり、別府の歴史も少しずつ勉強してきました。とにかくいろんな人のいろんな話がいっぱい詰まっている、と感じます。これから少しだけ、その歴史を語らせていただきます。よろしくお願いします。

ある時、実際に差し出された絵葉書の、「あこがれの別府に来ました」という文面に、強い印象を受けました。「ああ、そうなんだ。昔の人にとって、別府はあこがれの場所だったんだ」と感じ入ったわけです。
それほど、昔の別府は魅力にあふれていたようです。そんなことも考えながら、まずは「別荘」の話からしていきます。戦前はあちこちに「別荘」と呼ばれる屋敷がありました。別府に別荘を構えることは、県内外の富裕層にとって「あこがれ」だったと思います。

たまたま今、筑豊の炭鉱王のひとり、麻生太吉(あそう・たきち/1857〜1933)について勉強中なので、麻生家の別荘「山水園(さんすいえん)」を取り上げたいと思います。
別格の広さでした。現在は分譲され、広大な高級住宅地となっています。場所は、明豊中学・高校の南側、通りから少し奥まったあたりです。

今回掲載したのは、その山水園の立派な建て物と庭が写る絵葉書です。撮影されたのは、昭和初期ごろ、西暦では1930年ごろと推測します。
庭のあちこちで、ゆったりくつろいでいるのは、当時「世界周遊船」などと呼ばれた、豪華クルーズ船の外国人客たちでした。戦前、その「世界周遊船」は20回も来ているのです。別府の人気は海外でも高かったわけです。
山水園の庭は公開されていたので、必ずといってよいほどコースに組み込まれていました。日本庭園のすばらしさを味わってもらうには、最適な場所だったのでしょう。乗船客は欧米の大富豪たちだったと想像しますが、きっと「ワンダフル!」を連発したことでしょう。

さて、画面中央には、お下げ髪を垂らした、はかま姿の少女が4人、後ろ向きに写っています。おもてなしを担当した、別府高女の生徒でした。
実際に経験した元生徒の話を聞いたことがあります(私がお会いした時は90歳台でした)。「カステラを差し上げたら、これは何かと尋ねられた。外国人がカステラを知らないのに、びっくりした」と笑っていました。

おしまいに、別荘を所有していただけでなく、麻生太吉が別府に深い関わりを(おそらく愛着も)持っていたことを、付け加えたいと思います。
たとえば、「別府温泉鉄道」です。結局実現しませんでしたが、山の手までぐるりと一周する電車の計画に、大正時代かなり熱心に取り組んでいます。

また、田の湯にも持っていた別荘が、別府市公会堂の建設地に選定され、昭和3年(1928)に竣工しますが、ずいぶん協力したようです。
公会堂の敷地がほぼ決定したという新聞記事には、別府市にとって「予想外の好意」をあらわし、安い価格で譲渡に応じ、別に1万円寄付の申し出もある、などと書かれています。

今回はこのへんで…。「あこがれの別府」を探る旅を、しばらく続けていきます。
よろしくおつきあいください。

※世界周遊船や山水園のことは、川田康氏から多くのご教示をいただいています。川田氏の調べで、世界周遊船の寄港は大正15年から昭和12年にかけ20回でした。
※今回紹介した絵葉書は、主に来園した外国人客へのおみやげ用に製作されたようです。
※山水園は麻生太吉が大正3年に取得し整備していきました。
※別府では「麻生別荘」という呼び方がなじみ深いですが、麻生太吉自身は「山水園」と呼びました。なお、太吉は、政治家・麻生太郎氏の曾祖父です。

profile

小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。