60年近く前、中学1年生の社会科の授業で、「良子」は「ながこ」と読むのだと教わりました。
昭和天皇のきさき、香淳皇后(こうじゅんこうごう)のお名前です。
久邇宮邦彦王(くにのみや・くによしおう)の長女で、良子女王(ながこじょおう)と呼ばれました。

大正12年(1923)のことです。関東大震災で翌年1月に延期となりましたが、皇太子とのご成婚が11月に予定されていました。
お輿入れ前に、両親と妹と4人で九州旅行をしました。別府には5月21日から24日にかけて、なんと3泊4日も滞在されたのです。
といっても、初日は夜遅くに到着し、最終日は朝の出発だったので、実質的には少し短かったわけです。
宿舎は「致楽荘(ちらくそう)」。和田豊治(わだ・とよじ、1861〜1924)が大正9年(1920)に建てたばかりの別荘でした。

前回始まったこの連載は、「別荘」に焦点を当てています。致楽荘は、1回目に取り上げた麻生太吉の別荘「山水園」から、ほど近い場所にありました。
比較的最近まで、「中山別荘」と呼ばれ、広大な屋敷が残っていましたが、今は「別府山の手ライフガーデン」という商業施設になっています。
和田豊治は富士紡社長をつとめたほか、多くの会社の建て直しや創設に携わった、中津出身の大実業家です。

皇太子妃となる女性のご訪問ですから、新聞は連日でかでかと記事を掲載しました。そのおかげで、滞在中の様子がよくわかります。
そして、もちろん、致楽荘は大改修工事を行いましたし、お立ち寄りの各施設なども準備に大わらわだったようです。

2日目の22日は午前中、個人・団体約100人が謁見。午後は地獄めぐりなどをして、その後、当時の別府公園内(べっぷアリーナ一帯が別府公園でした)の大分県商品陳列所で、竹細工の実演を見学。グラウンド(ちょうどアリーナの位置)では小学生や高女生の演技を観覧し、マツのお手植えも行われました。

その夜は、致楽荘の広場で「鶴崎踊」が披露されました。それが今回掲載の絵葉書です。
白地にサクラの花を染め抜いた揃いの衣裳で、鶴崎町内の若い女性ばかり60人が踊りました。記事によると、良子女王は、珍しげに、また興味深げに、ときどき微笑を浮かべ、「ご満悦気(ごまんえつげ)」にご覧になった、そうです。
今年は「鶴崎おどり保存会」百周年だそうですが、この夜のご披露がきっかけとなり、翌大正13年に保存会が結成されたのです。「鶴崎踊」が一挙に全国に知られるようになる、大きな出来事だったわけです。
1カ月前に和田豊治から要請があり、鶴崎町ではこの上もない栄誉だと引き受けました。踊り手を選抜し、練習を積み重ねて、この日に臨んだそうです。

そして、もうひとつ、注目すべきは3日目の23日です。
午前中、おしのびで向かったのが、新別府の分譲地にあった「久邇宮ご料地」。分譲地の北西角に、4区画分の敷地が用意されていました。実現しませんでしたが、ここに別荘が建つ予定だったのです。そんな話があったなんて、驚きですね。

この日の夜は、山水園にも出かけ、博多にわかなどの余興をご覧になり、園内の池で育った大シジミもご賞味になったそうです。山水園の庭にもお手植えされました。
では、今回の話はこのあたりで。

※前回と同じく、川田康氏に多くのご教示をいただきました。
※べっぷアリーナ向かい側の小さな公園内に、この時のお手植えのマツがあります。

(メイン画像)
大正12年5月22日夜、良子女王(香淳皇后)が宿泊した致楽荘の広場で披露される「鶴崎踊」の絵葉書

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小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。