もうかれこれ15年前になる。

私が20年近く住んだ東京を引き払って郷里の国東に帰って来たころ、もっとも感心したことの一つは登下校中に元気に挨拶する子どもたちの姿だった。

登下校の時だけではない、今でもふだん道ですれ違う小学生たちは必ず挨拶をする。もちろん顔見知りの子というわけではない、見ず知らずの子どもたちのはなしだ。おそらく地元小学校の教諭はいつもそういうふうに子どもたちに教えているのだろう、「登下校の挨拶は大きな声で、元気よく」。

東京といわず、人口の密集した都市部では考えられないことかもしれない。道行く人にいちいち挨拶していてはそれこそ学校にたどり着かないだろうし、そもそもそんな風景は異様なものとしてしかイメージできないのである。それでも「サザエさん」のカツオくんも「ちびまる子ちゃん」もその友達もみな、ご近所の大人たちとしっかり挨拶していているところをみると、人口密集地域の「挨拶」が例外的なだけで、ここ日本国ではそれぞれの生活圏における子どもと大人の自然な挨拶は国民的共有事項なのだろうと思う。

なるほど、初等教育の基本は挨拶と掃除だ。これは40年前私が小学生だった頃と変わらない。それどころか自分が会社を経営するようになってつくづく感じるのは、仕事を含めたあらゆる社会生活の基本は挨拶と掃除(整理整頓)だということだ。世の多くの経営者の方々もこのことに異論はあるまい。そういう意味で小学校、中学校、高校と私たちが(耳にタコができるくらい)ずっと言われ続けたこの大人たちからの訓示「しっかりした挨拶をする」ことは社会生活をおくるうえで、もっとも重要な要件の一つだったのだ。

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前置きが長くなった。本稿の主題はこの「挨拶」というものが現代日本人にとってそんなに簡単な、そして単純なものではなくなってきたということである。

たとえば、コンビニやお弁当屋で私たちは買物をする。レジで会計を済ませると店員さんは必ず「ありがとうございました」と感謝の挨拶をする。これは日本国においては100%なのである。そしてその「ありがとう」に対して「ありがとう」と返す人を私はこの15年間、地元のレジ前でついぞ見かけたことが無い。これは外国ではとうてい考えられないことだ。ニューヨークでもパリでも香港でもスーパーで、キオスクで、レストランで店員さんに「ありがとう」といわれたらお客さんは必ず目を合わせて「ありがとう」と返す。その挨拶に心がこもっていようといまいとだ。目前の人が自分に挨拶したら返すのがあたりまえなのである。いやこれは都会と田舎町の違いではない、この件に関して日本では田舎も都会も同じように挨拶を返す人が極端に少ないのである。なぜか?

読者の皆さんはいかがだろうか。レジ前で「ありがとう」を返していますか?

挨拶の仕方に関して細かいことを言いだすときりがないのだが、日本人の挨拶の仕方にはいろいろとバリエーションがあって一筋縄ではいかない。「どうも」という返しは挨拶といえるのか。会釈(軽く頭をさげて)で返すというのもある、これは微妙だ。私の独断で線引きさせてもらうと、このシチュエーションでは「どうも」はギリギリセーフで、会釈はアウトだろう。「どうも」をセーフにすることにもわたくし的にかなり葛藤があるのだが、「どうも」をNGにすると挨拶を返すといえる人がほとんどいなくなってしまう、それが現状だ。この基準でいくとレジ前の店員さんの「ありがとうございました」に対して挨拶を返すひとは10%未満、「どうも」をNGにすればおそらく1%をきるだろう(これも私の観測結果による主観的推定数値です)。どうしてだろう?

もう少し詳しく観測すると年代によって差があることに気づく。総じて年齢が高くなるほど挨拶を返さない人が多くなる。逆だったらまだわかるのだ。子どもは恥ずかしさもあってしっかりと挨拶を返すことができない、大人になるにしたがって挨拶はだんだんと身に付くものだと。実際には子供たちは恥ずかしそうにしていながらも何らかの反応をする、はにかみながらちょっと頭を下げたりして。店員さんのほうを見向きもせずに全く無反応で店を立ち去るのはむしろ高齢者の男性に多いのだ。これっておかしくないか?

私はときどき小中学校の先生のまえで講演をする機会がある。私自身ずっと気になっている現象なので、学校の先生が相手の講演では必ずこの話をはさみながら、先生たちに同じ質問を投げかける。「コンビニのレジで店員さんにありがとうと言われて必ず挨拶を返す人、手を上げてください」結果は10人中9人が挨拶を返していない、ということになる。そう、これは先生に対する私の意地悪だ。つまり、毎日のように子どもたちに「挨拶をしなさい」と教える教諭が、こういうシチュエーションでは挨拶ができない。あるいは「しない」といったほうがいいのだろうか、挨拶の必要性を意識していない人のほうが多いようだ。これは子どもと教諭の関係だけではない、親子の間も同様だ。

そもそも「挨拶」とはなんのためのものだったか。学術的にはいろいろな考え方があるのだろうが、私たちの日常においてお互いに挨拶を交わすという行為はお互いの存在を承認するということだ。海外の見知らぬ町に一人で出かけたことがある人ならよくわかると思う。「私はあなたに敵意はありませんよ」。どの国のどんな挨拶にだって少なくともこのニュアンスが暗黙に含まれている。相手の挨拶に対して自分挨拶を返さないことは、相手の存在を承認しない、という意思表示にとられてもおかしくないのだ。私の知る限り、挨拶に対して挨拶を返さない日常があるのは日本だけだ。この国では他人に対してそこまで無防備に生きられるようになったのだろうか?

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さて、本稿も終盤にさしかかってきて今さらなのだが、私はこの問題についての結論を持たない。その時々で雑多な仮説が思いつくだけだ。

例えば状況がコンビニエンスストアではなくて昔ながらの個人経営の八百屋だったらどうだったか。想像してみて欲しい、もしかしたら「挨拶率」は向上するのかもしれない。それじゃあ、コンビニや弁当屋は他所からやってきた大資本で、そこで雇用されている従業員さんは「ありがとうございました」と目の前で言っているけれども、それは本心ではなくて、ただマニュアルどおりに言わされているだけなのだから、こちらが同等に対応する必要は無いと。そういうことなのか。百歩譲ってそうだとしても、目の前にいる店員さんはおそらくは地元の人で、その人の挨拶を無視するということは、目前のその人と従業しているその仕事を承認したくない、という意思表示にならないか。

あるいはもっと単純に、恥ずかしいだけなのかも知れない。「子どもじゃあるまいし」と思われる向きもあろうが、大人ならではの恥ずかしさというものがある。例えば、本来自分はこんな場所にこんなものを買いにくる人間じゃないんだという、自分に対する羞恥心。これは「お金」でモノを買うという行為そのものに対するやましさだ。資本主義/貨幣経済の歪みともいえる。でも買ってしまう、買わざるを得ない。そんな自分を承認したくないということだ。

どうだろう。深読みが過ぎるのだろうか。いずれにせよ、レジを挟んだ向こう側とこっち側で対称的な人間関係が成立していないということだ。そしてそこにはなんらかの現代的な屈託があることは間違いない。それも日本特有の。もしかしたら原因はひとつではないのかもしれないし、原因を追及することにそれほど意味があるとも思わない。

ただ、私は単純にこう考えるのだ。

目の前の人が「ありがとうございました」って言ってくれるのだから、「ありがとう」と素直に返せばお互いに気持ちがいいだろうと。みんなが普通に挨拶を交わすようになれば、町も住みやすくなるだろう。そしてついでにこうつけ加えれば上出来だ。「今日もいい天気ですねー」と。そしたら向こう側の人はこう返すに決まっている。「そうですねー、いい天気ですねー」と。さぞかしその一日が気持ち良く過ごせることだろう。

〈ご挨拶〉

最後になりましたが、あらためまして筆者からのご挨拶を申し上げます。

今月から1年間全12回、このコラムを書かせてもらうことになった松岡です。普段は国東半島の中山間部で今は廃校になった小学校を借り受けてモノつくりの事業を行っています。私の雑多な日常のなかで感じたことを思いつくままに書かせてもらいます。一年間、どうぞよろしくおつき合い下さい。

 

 

profile



松岡 勇樹 氏
(まつおか・ゆうき)

1962年大分県国東市生まれ。武蔵野美術大学建築学科修士課程修了後、建築構造設計事務所勤務を経て、独立。1995年ニットデザイナーである妻の個展の為にd-torsoのプロトタイプとなる段ボール製マネキンを制作。1998年、生まれ故郷である国東市安岐町にアキ工作社を創業、代表取締役社長。2001年「段ボール製組立て式マネキン」でグッドデザイン賞受賞。2004年第二回大分県ビジネスプラングランプリで最優秀賞受賞、本賞金をもとに設備を拡充、雇用を拡大し、現在の事業形態となる。2009年から、廃校になった旧西武蔵小学校を国東市から借り受け、事業の拠点としている。日本文理大学建築学科客員教授。

■「d-torso」ウェブサイト
http://www.d-torso.jp

■アキ工作社ウェブサイト
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