生まれてから現在にいたるまで私は通算で18回の引越しをしてきた。
今住んでいる家は住みはじめて12年目になるから、私にとってこれまでで最も長い時間過ごしている家/土地、ということになる。

 私の父親はサラリーマンで、転勤族。私がもの心ついてから2年に1度引越しをしてきた。最初の引越しは私がまだ三歳になる前で、生家がある安岐町(旧東国東郡)から大分市内の新川に引っ越した。この引越しのことはさすがに記憶にないが、はじめて越した先の家のことはよく憶えている。長屋のようなつくりでお風呂が共同だった。夕方時間が来ると家族4人でお風呂を使っていたような記憶がある。おそらく社宅だったのだろう。昭和40年代の初めの頃だ。長屋の前を賑やかにチンドンヤが練り歩いたり、夕方になると道端に屋台のおでんやが出たり、親父が駄菓子屋に連れて行ってくれたりと、今となっては美しい思い出として残っている。それこそ小津安二郎監督の映画にでてくる昭和の風景の一コマのように。
 
いまから50年前のことだから当時の親父は30代の前半だったはず。2年ごとに家族を引き連れて家移りするのはさぞかしたいへんだったろう。もちろん、それに着いて行く母親の苦労も想像できる。定年まで仕事一辺倒の親父だったので子供の頃遊びに連れて行ってもらった記憶はほとんどないのだけれど、この長屋時代だけが例外的に家の中に親父がいた記憶がある。
 
この最初の引越し以来、私が大学進学で上京するまで2年ごとの引越しが続いた。小学校が三つ、中学校は二つ、就学してから中学を卒業するまで、私はつねに「転校生」だった。
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不思議なもので、私と同じように常に転校生だった子は、大人になってからも匂いでわかる。ちょっと親しくなって話し込むと、やっぱりか、というようなことがたびたびあるのだ。対人関係の距離のとり方、人間観察の仕方、自らのデフェンスとオフェンスの切り替え方など、端々に共通項が見て取れる。
 
例えば、ある集会があったとする。自分は初めて参加する。知り合いもいるし、初対面の人もいる。参加者同士でいろいろと意見が交わされる中で、「転校生」はしばらく観察する。集団の中での参加者のポジショニングとパワーバランスを観察するのだ。特に意識しているわけではない、それが習性になっている。全体像を見極めるまで積極的な発言はしない。かと言って黙ったままでもいけないと感じている。「転校生」自身が常に観察され、注目される存在であるから、意見を求められることが多いのだ。それを知っているから常に他者の話をよく聞き、バランスを考えた発言を心掛けて、集団のコンテキストを読み込みながら自分の主張をする。要は自分のポジションを探しているのだ。
 
なんといじらしい「転校生」、そして小学生時代のわたし。もちろん、最初からこんな感じでは無かった。悲しいかな、転校を繰り返すほどに環境を生き抜くためのノウハウが身についてくるのだ。
 
まずは転校した初日がとっても大事。先生に紹介され着席して次の休み時間が来ると、まず世話焼きの子たちが机のまわりを取り囲む。この子たちが学校のこと、先生のこと、クラスメイトのこと、いろいろと人間関係を教えてくれる。でもこの情報は話半分くらいに聞いておいたほうがいい。むしろ作為的な情報が紛れ込んでいると思ったほうがいいかも知れない、子供は純粋にずるいところがあって、自分に都合のいいように誘導するから。。。これも転校生が学んだことの一つ。個人についての情報は予断を排して、本人と向き合って直接取得した情報でなければなんの役にも立たない。あとあと人間関係を複雑にしないための初手の一歩だ。
 
クラスの中にはいろいろなパート/役割の子がいる。世話焼き、お調子者、勉強ができる子、運動ができる子、あるいはその両方を兼ね備えている子。その中で必ず同級生から、そして先生からも一目置かれている存在が少なくとも一人いる。そういう子は転校生が来たからといって決してはしゃいだりしない。ただ時おり遠目から冷ややかな視線を転校生に送ってくる。一目置かれている存在は否応なく自意識が強くならざるを得ないのである。転校生と同じように。
 
その「一目君」を転校生に引き合わせるのはたいがいお調子者の役目である。でも転校生はこの「一目君」をもっとも警戒しなければならない。なぜならこの「一目君」のプライドの有り様とクラス全体の関係がX年Y組という閉鎖的な社会集団の主構造になっているからだ。とうぜん転校生は来たばかりなので、この「一目君」がなぜ一目置かれているのかを知らない。それがわかるまでは転校生は目立った動きを控えることにする。その子が勉強が得意なのか、運動が得意なのか、それとも類まれな特殊能力を持っているのか、最初の数週間、転校生は世話焼きたちと遊びながら、「一目君」を観察することになる。
 
けっきょく私はどの学校でも「一目君」と仲良くなったことは無かった。私の経験では、たいがいの「一目君」は嫌なヤツで、一般的な能力以上に根回しがことのほか上手な子が多かったから。かと言って転校生としては反目するのは得策ではないので、自分のほうから避けていたのかも知れない、今となって思うことだけれど。
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それでも、一度だけ「一目君」のひとりと対立したことがあった。その子は隣のクラスの勉強がすごくできるタイプの「一目君」で、何かの拍子に休み時間に廊下で私と喧嘩になった。たわいのない理由だったと思う。私は小学校時代は身体が小さくて喧嘩が得意なわけでは無かったけれど、喧嘩に負けても学校で泣き顔を見せたことは一度も無かった。それに勉強も運動もそこそこ上位で学校にもすでに慣れていたし、友達とも打ち解けていたつもりでいた。それは今から思えば喧嘩というほどのものでも無かったかも知れないが、結果「一目君」が泣いたことで決着した。その日からクラスメイトが誰も口をきいてくれなくなった。いわゆる村八分というやつだ。あいつはいい気になっている、傲慢だということだったのだろう。クラスメイトがしめしあわせてとった行動だというのはよくわかった。すでに自分は環境に慣れているつもりでいたけど、いまだに余所者だったということだ。出る杭がみごとに打たれた。数ヶ月以上そんな状態が続くなか、私は謝る気もないし、取り繕う気も無くてひたすら沈黙を守った。子供心にそれはプライドの問題だった。でも結構辛かった。両親や教師に相談する気はさらさら無いし、解決しようにもきっかけとなった「一目君」との対立構造そのもがすでに無くなっていたし、その他大勢との意地の張り合いみたいなことになっていたときに、また転校することになった。正直救われた気がした。
 
これは転校生の処世術としては失敗の経験の一つだ。でも「転校生のわたし」がこの事件から学んだのは、集団心理の理不尽さに気をつけろ、ということだ。集団と個人の関係性を観察して行動しないと再び虎の尾を踏むことになる。
この稿を書きながら自分でも驚く。40年前のこの出来事がこうしていまでも鮮明に思い返されるのは、自分の中にいまだにこのことが負債として残っているからだと思う。つまり借りを返していないということだ。
 
いや、安心してくれ給え、当時同級生だった諸君よ。個人的な恨みはぜんぜん無いから。しかしながらそれ以来私は大衆の同調圧力やポピュリズムといったもの、そしてそれに無自覚な人間たちを心の底から嫌悪するようになった。同時にそれらに対する恐怖も自覚する。いずれにせよ私の人格形成に大きく関与した事件であったことは確かだ。 1605_column_04
未知の社会集団に参入する機会は誰の人生にもたびたび訪れることだ。そういう経験を通して人は社会とか集団というものを学んで大人になる。「転校生のわたし」は他の人よりもはやくにそれを経験したに過ぎない。
 
ただ親心として、自分の子供には小学校六年間をひとつの小学校で平和に過ごしてほしいと考えていたのだが、けっきょく娘も三つの小学校を渡り歩くことになった。これは私の仕事とはまったく無関係に、彼女自身の意思によって決めた転校だ。そして娘もまた私が経験したのと似たような苦い経験をしているらしい。親子揃って因果なものだ。その娘も今はもう中学生。願わくは、そんな転校生としての娘の苦しい経験が彼女の未来の糧にならんことを祈る。

 

profile

松岡 勇樹 氏
(まつおか・ゆうき)

1962年大分県国東市生まれ。武蔵野美術大学建築学科修士課程修了後、建築構造設計事務所勤務を経て、独立。1995年ニットデザイナーである妻の個展の為にd-torsoのプロトタイプとなる段ボール製マネキンを制作。1998年、生まれ故郷である国東市安岐町にアキ工作社を創業、代表取締役社長。2001年「段ボール製組立て式マネキン」でグッドデザイン賞受賞。2004年第二回大分県ビジネスプラングランプリで最優秀賞受賞、本賞金をもとに設備を拡充、雇用を拡大し、現在の事業形態となる。2009年から、廃校になった旧西武蔵小学校を国東市から借り受け、事業の拠点としている。日本文理大学建築学科客員教授。
■「d-torso」ウェブサイト
http://www.d-torso.jp

■アキ工作社ウェブサイト
http://www.wtv.co.jp