みなさんは、夜になると点灯する、ラクテンチの赤いネオンをご覧になったことがありますか。
「ラ」、「ク」、「テ」、「ン」、「チ」。
ゆっくり一文字ずつ点灯したあと、いったん消えて真っ暗に。少し間があって、今度は一斉に点灯します。
「ラクテンチ」!
このパターンが繰り返されるのです。

子どもの頃の私は、夜になるとトイレの窓からよく眺めていました。特に、一斉に点灯する瞬間に合わせて、「ラクテンチ」と声を出すのがクセでした。これが意外に難しくて、タイミングが微妙に早すぎたり遅すぎたり…。
60年ほど前の思い出です。

「エーッ!ラクテンチはそんなに昔からあるの!」と驚かれる方もおられるでしょうが、とんでもない。今年9月で95年の歴史があるのです。
昭和4年(1929)9月3日に、ケーブルカーの開通式が行われています。今回掲載した絵葉書は、その当日の様子なのです。
ラクテンチといえば、おなじみのアヒル競走をはじめ、若い方ならプールで遊んだ思い出とか、年配の人ならばゾウの背中に乗ったとか、お猿の電車だとか、世代ごとにいろいろな思い出が詰まっていることでしょう。

さて、今回お話ししたいのは、およそ百年前、このラクテンチを構想した山崎権市(やまさき・ごんいち/1879~1962)のことです。今の佐賀県武雄市の出身です。

そもそも、ラクテンチの山が、金山だったことをご存じでしょうか。
鳥取県境港市の出身で、台湾にも渡って金山王として大成功した木村久太郎という人が、明治36年(1903)から採掘をしていました。
別府金山と呼ばれていたようです。
大正5年(1916)にいったん休止したあと、大正12年に採掘を再開するために、木村商事別府出張所長として派遣されたのが鉱山技師の山崎権市だったのです。

ところが、掘り進めて行くと、温泉の熱湯が噴き出し坑夫が火傷するなど手に負えず、また地元議会の反対もあって断念せざるをえませんでした。
そこで、会社が所有するこの山の、別の活用方法として考案したのが、ケーブルカーを敷設し、山上に眺望のよい遊園地を設けることでした。

実は山崎権市の長男、山崎武雄(ペンネーム、渋川驍)は、東大出身で国会図書館などに勤務しながら小説を書いていました。
その渋川驍の自伝的小説『潮間帯』を読んでみると、父親である山崎権市が、ひそかに温めていたアイデアを息子に明かすシーンが描かれています。
「じゃ、内輪だけの話だよ。実は金山がだめなら、この山にケーブルカーをかけて、会社の持っている土地を使って、遊園地を作ったらどうかと思ってるんだがね」

さらに、話は続き、「いま会社は北海道の炭坑が不振で資金に余裕がない、木村社長は反対するだろうが、しっかりとした事業計画を立て出資者を獲得しさえすれば、社長も賛成してくれるのではないか」、というわけです。

私が以前お孫さんから聞いた話も紹介しましょう。
この方は子どもの頃、山崎権市と一緒に生活していたそうです。
山崎権市がケーブルカーの構想を話した時に、社長から「大馬鹿野郎!」と怒鳴られたのだそうです。
そこで、「だれのために、馬鹿になっているのか。会社の資金をちょっとでも残したいと頑張っているのですよ」と反論したら、社長が感動して計画を了承してくれた。
そんないきさつがあったそうです。

権市は、とんでもない大きな夢を描くことのできる人物であると同時に、反対する社長をみごとに説き伏せる、骨のある人物だったようです。
お孫さんの話では、資金が集まらず、船から海へ飛び降りてしまおうと、悩み苦しむようなこともあったそうです。

金山から方向転換し、ケーブルカーのある遊園地を構想したうえで実現させていった山崎権市。そんな百年近く前の出来事を頭に置いて、もう一度流川通りからラクテンチのほうを眺めてみると、少し違った見え方がするのではないでしょうか。

最後に、付け加えると、別府の近代史のバイブル的存在『別府今昔』という書物には、「見晴らしのよい乙原の山を利用して何か別な事業をやったらどうか……山崎をなぐさめるように社長の木村が新事業を山崎にすすめた」というくだりがあり、山崎と木村社長との関係は今まで述べたこととは、いささかニュアンスが違っています。
それはともかくとして、ケーブルカーを構想し、実現させた山崎権市の大きな功績に変わりはないと思います。

※ラクテンチは戦後使われた名称です。戦前は、一般には「ケーブルカー」などと呼ばれていたようです。
(画像説明)昭和4年(1929)9月3日、開通式当日のケーブルカー

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小野 弘
おの・ひろし:1953年、別府生まれ。別府の絵葉書収集家、別府の歴史愛好家。今日新聞記者時代に「懐かしの別府ものがたり」を長期連載。現在も公民館で講演するなど活動中。