日ごろ講義を通して大学生と接していて思います。

彼ら彼女らの読書量があまりに少ないと。

さもありなん。2014年9月に文化庁が発表した世論調査では、1か月に本を1冊も読まないと回答した人が47.5%もいたのです。年代別にみると16~19歳で42.7%、20代が40.5%、30代が45.5%、40代が40.7%、50代が44.3%、60代が47.8%、70代以上が59.6%という結果です。

以前から若者の読書離れを問題視している話などが散見されますが、この調査結果をみる限りそうとも言えず、視力の衰える70代以上を除けば年代によって大きな差はみられません。

ただ、先の意見に反論するかたちで、ネットやスマホの普及を理由に「むしろ文字を読む機会は増えている」と言う人がいます。

たしかにそうでしょう。ネットやスマホに時間を取られ、読書をする暇はないが文字は読んでいるという人が増えていることは事実だと思います。しかし、そのことが読書の代わりになっていると言えるのでしょうか。

実は、同じ文字の羅列であっても、ほとんどの個人のネット記事やブログと、書店で販売されている書籍とは大きく異なっているのです。その理由は大きく2つあります。

一つは、ネットでは多くの場合、編集者が介在しないこと。書籍や雑誌の記事は通常、文筆家、作家、ライターからいただいた文章を最初の読者として編集者が読み、わかりにくい表現や間違った言葉遣い、文字などを修正していきます。そういう校正と校閲という工程を経て、読者に文章が提供されます。

しかし、ブログなどの個人が発信する記事は、ほとんどの場合、編集者は介在しません。個人が書いたことがそのままアップロードされ、ネットに表示されます。著者の思い込みによる事実誤認があっても、間違った漢字・表現が使用されていてもそのままです。

つまりは、正しい日本語とはかぎらない文章が平気で掲載されているのがネットの文章なのです。

そしてもう一つ。それは物理的制約がないこと。紙の場合、その紙面により文字数に制限があります。通常、印刷・製本の関係で8ページずつしかページを増やせません。ほんの3行分文字量が多いから、と簡単にページを増やすことはできないのです。だから3行分の文字を削り、少なくします。雑誌などでは、その文章に割り当てられたページ数があります。その範囲内に文章をまとめなければならないのです。

であれば、だらだらと冗長な文章を書いていてはその制約内に収まらない。文章を考え尽くして推敲し、いわば筋肉質の文章を書かなければならないのです。

もちろんなかには与えられた文字数が多すぎて、だらけた文章がみられることもありますが、そう多くはなく、ほかの文章との違いが際立って、すぐに見抜かれます。

以上のことから、正しい情報と知識をすっきりとした文章から得ようと思えば、やはり読書は必要なことだと言えるでしょう。また、読書を重ねることによって、読者自身が正しい言葉、表現を身につけることもできます。

もちろんすべての書籍がそんなわけでもありませんし、著者自身の文章の巧拙にも左右されることは言うまでもありません。

とはいえ、正しい言葉は代々伝えて残していきたいもの。言葉は生き物だから変わるものである、と間違った言葉を肯定する人も多いようですが、美しい日本語はやはり消滅させたくない。

私たちの世代には、モバイルネイティブ世代に正しい言葉、美しい日本語を伝えていく役割もあると思います。うるさいと言われようとも、彼ら彼女らに伝え続け、そのためにも私たちの世代も率先して本を読むことが求められています。

profile

田代 真人 氏
(たしろ・まさと)

編集者・ジャーナリスト。(株)メディア・ナレッジ代表。駒沢女子大学、桜美林大学非常勤講師。1986年九州大学卒業後、朝日新聞社、学習研究社、ダイヤモンド社と活躍の場を変え、女性誌からビジネス誌まで幅広く取材・編集。著書に『電子書籍元年』(インプレスジャパン)、構成作に『もし小泉進次郎がフリードマンの『資本主義と自由』を読んだら』(日経BP社)がある。