■なぜ八幡文化を研究するようになったのか
──飯沼学長は、どのような経緯で宇佐八幡宮の研究に携わるようになったのですか。
飯沼 宇佐風土記の丘歴史民俗資料館、現在の大分県立歴史博物館の研究員として赴任してからです。学生時代は中世の荘園(貴族や社寺の私的な領有地)をテーマに研究をしていたので、荘園を鎮守する神や社について調べたことはありました。この時、荘園村落の原点を探るため国東半島を調査したこともありました。大学院修了後は文学部の助手をしていたのですが、助手の期間は2年と決まっていて、2年経ったらどこか別のところに就職しないといけません。そう考えていた時に、資料館の研究員をしている大学院の先輩から「ポストが空くから公募試験を受けてみないか」と誘われ、その結果、赴任が決まったのです。

──そこから大分に移住されたのですね。
飯沼 資料館のテーマは「うさ・くにさきの歴史と文化」ですから、宇佐八幡宮について何も知らないわけにはいかず、これは勉強しなきゃならんと追い込まれたわけです(笑)。ところが宇佐八幡宮の研究はその道の第一人者である中野幡能(はたよし)先生によって既に確立されていましたから、私の出る幕なんてありません。むしろ赴任当初は「専門ではない古代史にまで手を出したら、こりゃあえらいことになるぞ」と思っていました。

──もともと中世史が専門でしたからね。
飯沼 これは余談ですが、私は早稲田大学時代に古代史と中世史を専門とする竹内理三教授(文化勲章受賞者)に師事していました。奇遇にも中野先生が上梓された『宇佐神宮史』(宇佐神宮庁)の監修を竹内教授がされており、中野先生からは「竹内先生の弟子が来た!」と歓迎されましてね。赴任早々、盛大な歓迎会を開いていただき、大変恐縮したのを覚えています。そこから私なりに宇佐八幡宮の研究をしはじめたのですが、調べているうちに中野先生の研究に納得できない部分が数カ所あると感じはじめたのも事実でした。そこで中野先生が鬼籍に入られた後に、あらためて違う視点・論理で研究を進め、2004年に上梓したものが『八幡神とはなにか』(角川選書・角川ソフィア文庫)です。私が大分に来たのが1987年ですから、実に17年という長期にわたる研究の成果ともいえます。

──では、飯沼学長の宇佐八幡宮に関する視点・論理とは?
飯沼 宇佐八幡宮の祭神である八幡神は、15代天皇である応神天皇の神霊と言われています。応神天皇は、玄界灘を越えて新羅(朝鮮半島南東部にあった国家)と戦った神功皇后のご子息であり、そのことは日本最古の歴史書『古事記』『日本書紀』、いわゆる「記紀」にも記されています。応神天皇が実在の人物だとすると、生きていた時代は4世紀。一方、記紀が編纂されたのは8世紀です。ということは、記紀にも八幡神が登場して然るべきなんですが、出てこないんですね。つまり八幡神という神様は8世紀以前には存在しなかった神様であり、応神天皇と結び付けられるのも後世になってからではないかと考えはじめたのが、中野先生の論考と大きく異なる部分です。

■八幡神は国を鎮守する「境界の神」であり「戦の神」
──八幡神とはどのような神様なのでしょうか。
飯沼 八幡神は人格神ではなく〝八の旗(幡)〟いわゆる「軍旗の神様」と、私は考えます。軍旗は国と国の境目に掲げられるので、「境界の神様」であり、「戦の神様」です。では、なぜ宇佐にそのような神様が現れたのかと言えば、古代日本の境界がその位置にあったからです。当時のヤマト国家における西の国境は関門海峡と豊後水道を結んだ線であり、この両方を含む国が「豊国(とよのくに)」でした。豊国と聞くと文字通り「豊かで富んでいる国」と思われがちですが、ヤマト国家と対立する外の勢力と接する境界の場所だったのです。

──境界線の先には、南九州の隼人族がいましたからね。
飯沼 ちなみに後の豊前国(大分県北部と福岡県東部)では新羅や百済、高句麗といった朝鮮半島に由来を持つ瓦が使用されていたことが発掘により明らかになっています。また古代の戸籍においても、多くの渡来系民の存在が確認できます。そもそも〝旗に宿る神〟という思想のルーツは中国にありますから、八幡神をもたらしたのは渡来系の人々であったと考えられます。

──それがなぜ応神天皇と結び付いたのでしょう。
飯沼 8世紀から9世紀にかけて、日本と朝鮮半島の新羅は緊張状態にありました。そのような情勢におかれた人々は、かつて新羅との戦いで活躍した応神天皇の母・神功(じんぐう)皇后の霊を信仰するようになります。宇佐宮としても神功皇后の霊を祭祀することで「護国の神様」としての地位を確固たるものにする意図があったのでしょう。つまり八幡神を応神天皇の神霊とみなすようになったのは、9世紀前半に神功皇后霊を祭祀する社殿が造立された以降だったのではないかと考えられます。

──まさに外の対抗勢力からヤマト国を護る象徴的な存在だったのですね。
飯沼 宇佐宮は神功皇后霊を祭祀する以前、8世紀に比売(ひめ)神という神様も祭祀しています。比売神がどのような神だったのかは諸説あるのですが、最も有力なのは「宗像三女神」の要素を取り入れたのではないかという説です。宗像三女神は玄界灘の要としてヤマト国家と朝鮮半島との境界に位置した神様ですから、八幡神や神功皇后霊と同様に「境界の神様」「戦の神様」として祭祀されたと考えるのが自然でしょう。

「あの人に聞きたい 第15回 飯沼 賢司さん/別府大学 学長 #2」へ続く

profile

いいぬま・けんじ/別府大学学長。日本史学者(専攻:日本古代中世史、環境歴史学、家族史)。1953年長野県生まれ。早稲田大学文学部日本史専修卒業。同大学院文学研究科修士課程修了。早稲田大学文学部の助手を経験した後、1987年に大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館(現・大分県立歴史博物館)の研究員として赴任。1993年に別府大学の助教授となり、2008年には文学研究科長に就任。2019年、別府大学の第11代学長に就任。著書に『八幡神とはなにか』(角川選書)、『環境歴史学とはなにか』(山川出版社)など。
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