
夏になる少し前のことだ。ベンチャー企業経営者や、もの創りに取り組んでいる数名の若い衆と酒を酌み交わした。
酔った勢いもあってか、0から1(無から有を生み出す)ことの意味について議論になった。そして、僕自身「オリジナル」とか、「クリエイティブ」といった言葉の意味を、これまで随分とゆるく、そして曖昧に使ってきたと感じた。
「オリジナル」とか「クリエイティブ」ってなんだろう?
今回、このことを考えてみた。断るまでもないが、これはあくまで個人的な意見である。
よく言われることだが、白い紙に思いつくまま、思うがままに表現することが真新しく誕生する「オリジナル」で「クリエイティブ」なものだと思われがちである。
しかし、それは違う。なぜなら、「オリジナル」とか「クリエイティブ」とは歴史的な文脈の中で存在するものであり、さらに言えば、引用によって紡がれた織物のようなものなのだ。
そもそも、“新しい”とは相対的な立ち位置をもつことによってのみ存在する。したがって、この世に絶対的な新しさなどありえない。
建築・映画・美術・文学・音楽・スポーツなど、およそ表現されるもののすべてにおいて、過去の膨大なパフィーマンスと作品の記録と記憶が存在する。これら、先人たちのアーカイブから逃れることは誰もできない。
例えば、ル・コルビュジエがいなければ、その弟子であり、東京文化会館や東京都現代美術館の設計者でもある前川國男はいないし、前川國男がいなければ東京都庁や代々木体育館を手がけた丹下健三はいない。その丹下健三がいなければ、ヒルサイドテラスや青山のスパイラルを設計者した槇文彦、さらに大分市出身でアートプラザ(旧大分県立大分図書館)やJR由布院駅を設計した磯崎新もいない。
映画監督のウィリアム・ワイラーがいなければ、ワイラーの影響を受けた小津安二郎も黒澤明もいないし、黒澤明がいなければジョージ・ルーカスもいない。
フォークソングの世界で言えば、ウッディ・ガスリーがいなければ、ボブ・ディランはいないし、ボブ・ディランがいなければ吉田拓郎もいなかっただろう。
さらに加えて、作曲の世界で言えば、ドビッシーとエリック・サティがいなければ坂本龍一は存在しなかったし、坂本龍一がいなければ、小室哲哉もコーネリアスも存在しなかった。
車椅子テニスの国枝慎吾がいなければ、パラリンピックの舞台にいなかったと小田凱人自身が語っている。
表現するということは、これまでの歴史的文脈の流れを学び、畏敬し、感謝し、そしてそこから更に、順列組み合わせを変え、いままで無かった閃き(=アイデア)を付け加える作業なのだ。それが、すべてのクリエイティブの新しさであり、オリジナリティということではないか。
つまり、どこまでいっても“創ること”とは、これまで先人たちが紡いできた織物に、自分らしい一本の糸を加え編む試みなのだ。
だからこそ、歴史を学ぶことが必須なのだ。
「オリジナルであるために、過去を学ぶ」
坂本龍一の言葉である。
