第28回 英国と欧州大陸 #1より続き
第29回 英国と欧州大陸  #2

18世紀から19世紀
18世紀。
英国では、農業生産の飛躍的な向上を成し遂げた農業革命に続き、世界初の工業化を達成した産業革命がはじまります。

英国が自分たちの生産能力を向上させた背景は、植民地政策奴隷貿易の影響が大きかったと思います。当時の英国は欧州の国々が争っている間にいろいろな国々を植民地にしていきました。ドーバー海峡のおかげで欧州の国々が英国に攻め入ることが難しく、余った戦力を世界の植民地に向けることができたのです。結果、アフリカ、中東、インド、マレー半島、オーストラリア、ニュージランドを次々に植民地にしていきました。
植民地は、英国で生産した商品を関税なしで売る市場でしたので、作れば作るほど売れる。そのため生産性を飛躍的に向上させるインセンティブがあったのです。英国が当時、「世界の工場」と称されたのも有名ですね。英国にとって植民地政策こそが繁栄の鍵だったのです。

そんな英国の驚異はロシアでした。
ロシアの多くは氷に覆われているため、常に南下政策を考えます。地中海、中東、アジアと貪欲に攻め込んでいくロシア。当然、英国としては欧州大陸がロシアの手に入ることを恐れていたので、植民地に向けていた海軍の軍事資源をロシアとの戦いに向け始めます。
直接的に戦いを仕向けない英国が相棒に選んだのはフランスでした。

1853年、ロシアは南下政策を積極化させてオスマン帝国に宣戦。英国とフランスはオスマン帝国を支援して戦争がはじまります。
クリミア戦争(1853年–1856年)です。
結果、ロシアは敗北してパリ条約で講話、オスマン帝国の領土は保全されロシアのバルカン方面での南下は一旦抑制されました。

一方、ロシアはインドにも向かっていました。
既にイラン進出にて戦争を起こし、アフガニスタン方面にも勢力を伸ばそうとしていたのです。英国にとってインド植民地の権益を防衛する大義があったので、英国はアフガニスタンへ侵略して、アフガン王国の制圧を目指しました。
これがアフガン戦争(1839年–1842年)です。

さらにロシアは中国にも南下政策を仕向けます。
ロシアとしても不凍港を欲していたのが理由です。当時ロシアは上述したバルカン半島での南下政策を断念していたので、進出の矛先を極東地域に向けることにしました。

このとき日本は、近代国家の建設を急ぐとともに、ロシアに対しての安全保障上の理由から朝鮮半島を自国の勢力下に置こうと考えていました。朝鮮を属国としていた清と日清戦争(1894年–1895年)に勝利した日本ですが、中国への進出を目論むロシアが邪魔だったのです。
ロシアは露清密約を結び、満州進出を推進。英国はこの動向を観察しており、日本と手を組むことで、結果的に日本がロシアと戦うよう導いたのです。
そう、日露戦争(1904年–1905年)です。

この戦いは「グレート・ゲーム」と呼ばれました。
中央アジアの覇権をめぐる英国とロシアの敵対関係や、戦略的な抗争を指す言葉で、両国の情報戦をチェスになぞらえてつけられたのです。
グレート・ゲームは20世紀の冷戦構造と全く同じで、典型的なランドパワーのロシアに対し、シーパワーの英国は直接ロシアに攻め込むことなく適宜、同盟国と一緒になり、間接的にロシアを封じ込めました。

クリミア戦争、アフガン戦争、日露戦争…。
結果的にロシアは疲れはて、混乱状態に陥ります。萎縮したロシアは英露協商(1907年)を結び、ついにその争いは終了しました。

20世紀/第二次世界大戦を経て
20世紀。
新たな敵国が出現します。
ドイツです。
ドイツはロシアに変わる新たなランドパワーとして台頭し、2つの世界大戦を引き起こします。
当然、英国は2回とも連合軍をつくり、ドイツを叩きのめしました。
第二次世界大戦時は、ヒトラーが群衆を率いて欧州をほぼ占領します。その範囲はフランス、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、東ヨーロッパ、モスクワまでと広域に攻め込みました。
しかしドイツは陸軍主体の戦いが得意だったので、ドーバー海峡を超えて英国に攻め込むことに苦戦しました。それでも空軍を使って英国に攻め込み、ロンドンは無差別空爆を受けますが、時の首相のチャーチルは絶対に屈しない姿勢を示します。ドイツは北フランスから飛行機を飛ばすため、英国北部まで攻め込むことができず、逆に英国は、ドイツが北フランスから飛ばした飛行機をダイレクトで叩きのめすことができました。当時の飛行機は今ほど距離を稼ぐことができず、空の戦いでもドーバー海峡が英国に味方したのです。

そこでヒトラーは英国を諦め、代わりにロシアを攻め込みます。
このとき英国は、ロシアと手を組んでドイツを攻撃しようと考えました。
しかし、あろうことか、日本が勘違いして米国に戦争を仕掛けたのです。
当時の米国は欧州での戦争をためらっていましたが、日本が宣戦したことによって目覚めてしまいました。そこで英国のチャーチルは、すかさず米国を味方につけて、陰で日本と米国の戦争を操ることを目論んだのです。

そして第二世界大戦後にナチス・ドイツは崩壊し、英国と手を組んだロシアは、再び東欧とドイツに勢力を伸ばしていきます。
ドイツ国内は東側がロシア、西側を英国と米国の統治し、分断されました。
さらに米国はNATOを結成し、加盟国が外部からの攻撃に対し相互防衛に合意する集団防衛システムを構成。対するロシアはワルシャワ条約を結び、この勢力に対抗しました。当時の英国は完全に米国におんぶにだっこで、本来は当時の大英帝国を復活したかったでしょうが戦疲れがあったのでしょう。その間に植民地が次々に独立していったのです。

皮肉なことに、植民地の独立運動に火をつけたのは日本でした。
日本が取った大東亜共栄圏の思想がフランス領や英国領だった国々を奮い立たせ、両国の植民地だった国々は次々に独立していきました。ロシアが東ヨーロッパの共産化進めるなか、英国は悔しい思いをしたことでしょう。
そこで英国は、単独では何もできないと判断して米国と手を組みました。
元々は同じ英語圏で、その昔は英国の植民地だった米国。
なんとなく英国は米国を下にみていましたが、米国の助けなしには頑張れなかったのです。

そんな折、エジプトのナセル大統領が1956年にアスワン・ハイ・ダムの建設費財源を得るためにスエズ運河の国有化を発表しました。
スエズ運河は1869年に営業開始、1875年に英国が買収し、株主となっています。そのため株主である英国やフランスに多大なる富をもたらしていました。
エジプト革命を成功させたナセル大統領は当初、アスワン・ハイ・ダムの費用援助を米国に求めましたが、ナセル大統領はロシア寄りの姿勢を取っていたため米国に断られたのです。
結果、スエズ運河の国有化を思い付いたのでしょう。
これがスエズ戦争(1956年)です。

当初、英国は優位な展開をリードしていましたが、ロシアがエジプトを支援するという名目で軍事演習を開始します。本来ならば米国が手助けしても良かったのですが、米国は助けませんでした。というのもロシアでスターリンが死去し、米国とロシアの関係が良好になりつつあったからです。当時の米国大統領・アイゼンハワーも、その関係を再び冷えた状況にしたくなかったのです。英国としてはNATOのメンバーなのに、米国に助けてもらえない状況に苛立ちを覚えたと思います。

20世紀/EU発足
産業革命後、植民地あってこその英国…。これはフランスも同じでした。
自国で生産した製品が、関税なしに自由に売れる市場が植民地だったので、経済を豊かにすることが可能でした。そのため英国もフランスも同じような仕組みを再び作れないかと考えました。
そしてこれらが統一欧州の発想につながったのです。
欧州全体を市場と捉えて自国の経済を発展させようと企んだのです。

フランスは、ドイツに対して二度と戦いたくないという思惑もあったと思います。
歴史の中でフランスは何度もドイツに攻め込まれた嫌な記憶がありました。ドイツの怖さを十分に知っているのです。そのため、英国よりも統一欧州に向けて先に動いたのはフランスでした。西ドイツとの和解というインセンティブが英国よりも高く、行動が早かったのです。

欧州経済共同体(EEC)の当初の加盟国は、フランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、ベルギーでした。
英国は、これに対抗してEEC非加盟の英国、オーストリア、スウェーデン、スイス、デンマーク、ノルウェー、ポルトガルとともに欧州自由貿易連合(EFTA)を結成します。政治統合を目標とせずに域内関税を撤廃、EECと異なり共通関税の設定をしない連合体です。

どちらの組織も徐々に加盟国を増やしていきましたが、やはりフランスとドイツが手を組んだら最強でした。EFTAもスペイン、ポルトガル、スイス、北欧チームを集めて運営していきましたが上手くいかず、結果的に英国はプライドを捨て、フランスに仲間に入れてもらうこととなったのです。
英国としては、自国の経済状況の悪化を見て、背に腹は変えられない状態だったのでしょう。
工場がバタバタ倒産して、労働者がデモりまくり、リストラ反対の嵐。そして賃上げを望む労働者と、ストライキしまくる労働者とで、とにかく大混乱だったのです。
国が荒れて英国病と揶揄された時代、英国としても不本意な時代だったと思います。

1973年、英国とデンマークが欧州共同体(EC)加盟に伴いEFTAを脱退。1986年、ポルトガルがEC加盟に伴いEFTAから脱退。その後、アイルランド、ギリシャ、スペインも加盟して、1986年には12カ国に拡大します。
そして世の中は冷戦が終わり、東ドイツが民主化運動を起こしてベルリンの壁が崩壊。ドイツという大国が再び誕生しました。
本能的にドイツを恐れているフランスは、ドイツ復活を恐れたのでしょう。ドイツを取り込んで欧州全体をひとつとすれば問題ないと考えました。
今の欧州連合(EU)の始まりです。

ECは市場統合が目的でしたが、EUは経済分野に関して超国家的性格を持つ欧州共同体の枠組みが目的でした。共通の外交、安全保障政策、司法、内務協力という加盟国政府間の協力は画期的です。
更に通貨の統合が進められ、1998年に欧州中央銀行が発足。翌年から単一通貨ユーロが導入されました。

第30回 英国と欧州大陸 #3へ続く

profile

早嶋 聡史 氏
(はやしま・さとし)
株式会社ビズナビ&カンパニー 代表取締役社長
株式会社ビザイン 代表取締役パートナー
一般財団法人日本M&Aアドバイザー協会 理事
Parris daCosta Hayashima k.k. Director & Co-founder

長崎県立長崎北高等学校、九州大学情報工学部機械システム工学科、オーストラリアボンド大学経営学修士課程修了(MBA)。
横河電機株式会社の研究開発部門(R&D)にて産業用ネットワークの研究に従事。MBA取得後、海外マーケティング部にて同社主要製品の海外市場におけるブランド戦略・中期経営計画策定に参画。B2Bブランディングの先駆けとして後に知られるようになったVigilanceという力強いブランドキャンペーンを実施。退職後、株式会社ビズナビ&カンパニーを設立。戦略立案を軸に中小企業の意思決定支援業務を行う。また成長戦略や撤退戦略の手法として中小企業にもM&Aの手法が重要になることを見越し小規模のM&Aに特化した株式会社ビザインを設立。更に、M&Aの普及活動とM&Aアドバイザーの育成を目的に一般財団法人日本M&Aアドバイザー協会(JMAA)を設立。近年、アナログの世界に傾倒すること、価値を見直すことをテーマに、自ら高級スイス時計のブランドであるパリス・ダコスタ・ハヤシマを設立する現在は、売上規模数十億前後の成長意欲のある経営者と対話と通じた独自のコンサルティング手法を展開。経営者の頭と心のモヤモヤをスッキリさせ方向性を明確にすることを主な生業とする。
【著書・関連図書】
できる人の実践ロジカルシンキング(日経BPムック)
営業マネジャーの教科書(総合法令出版)
ドラッカーが教える実践マーケティング戦略(総合法令出版)
ドラッカーが教える問題解決のエッセンス(総合法令出版)
頭のモヤモヤをスッキリさせる思考術(総合法令出版)
実践『ジョブ理論』(総合法令出版)
この1冊でわかる! M&A実務のプロセスとポイント(中央経済社)
【関連URL】
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